映画「シャトーブリアンからの手紙」


タイトルを見ただけではどうしても”シャトーブリアン”からお肉を連想しそうですが、
この作品は肉の話ではありません。

ドイツの巨匠フォルカー・シュレンドルフが、第2次大戦時、ナチス占領下のフランスで、1人のドイツ人将校が暗殺されたことから、ヒトラーが150人のフランス人の銃殺を命じたという史実を映画化した人間ドラマ。1941年10月20日ナチス占領下のフランスで1人のドイツ人将校が暗殺される。ヒトラーは報復として収容所のフランス人150人の銃殺を命令。過度な報復に危険を感じたパリ司令部のドイツ軍人たちは、なんとかヒトラーの命令を回避しようとするが、即日50人、さらに1日ごとに50人と3回にわけての刑執行にするのが精いっぱいだった。政治犯が多数収容されているシャトーブリアン郡のシュワゼル収容所では、銃殺されるフランス人のリストが作られていくが、その中には、映画館でドイツ占領に反対するビラをまいたために収容された、まだ17歳の少年ギィ・モケも含まれていた。ギィは、塀を隔てた女子収容所にいる同い年の少女オデットに恋をしていたが……。(映画.comより)



シャトーブリアンはフランス北西部のロワール=アトランティック県にある町。
この地域にはナントの勅令の舞台となったナント市もあります。

実際にこの地域へ行ったことはないのですが、作品を見る限りとても穏やかな田舎町というようなところでした。

 

作品の舞台となるショワゼル収容所は政治犯を収容しています。
主人公のギィ・モケもまた、映画館で戦争反対のビラをまいたことで収容されているのですが、ここは私たちが想像する収容所とは少し違うように思います。

労働を強いたりする描写は少なく、収容者がタバコを吸うシーンがあるなど、多少の制約はあるもののある程度の自由は認められているようです。
ユダヤ人殲滅のためのものではないからなのでしょう。アウシュヴィッツ等の強制収容所と比べるとかなり穏やかなところであることが作品からわかります。
だからこそ、この収容所で起きたことが非常に鮮明な悲劇として遺っているような気がします。

 

正直、フランスも大変だったのだと思います。
ナチスに占領されてしまったがフランス人としての威厳だけは持ちたい。そんな不安定な気持ちを、この時代を生きるフランス国民誰しもが持っていたのだと。

 

あの若き副知事も、ギィたちをなんとか救いたいと心から思っていた。
でもリストを差し出され、代わりの人を選ぶことはできなかった。
人間であるが故に命の選別をすることができなかったのだと思います。
しかし最後、結局、選ばなくてはいけないシーンが出てくる。
「代わりの人間を選ばなかった自分は”人の命を選別し、誰かを殺すこと”に関与していない」という彼の願いは聞き入れられなかったということなのでしょう。
直接的に手は下さずとも、組織の人間として処刑に踏み切ったことで副知事も加害者として描かれています。

一方、ナチス・ドイツ側では若き将校と通信兵上がりの兵士が描かれます。
将校は血の気が多く、処刑に関してもなんら疑問を持つことなく、上からの命令に忠実に従っています。
兵士の方は収容所で遊ぶギィたちの姿を見て微笑んだり、処刑の際には気分を悪くして倒れ込むなど、年相応の、少年の名残を思わせる青年。
ナチス・ドイツ側の人間だからといって、皆が皆人の心を持たない悪魔のような人間ではないことを印象付けているような気がしました。
こういう作品を観るとどうしても主語を大きく考えてしまいがちですが、本作の将校と兵士のコントラストはそれを和らげるような効果があるのではないでしょうか。

一歩、また一歩と事態が深刻化するにつれ、この状況をどうすることもできないもどかしさと切なさが胸にきます。
どうすれば良かったのかという答えのようなものが、観終わったあともなかなか出ません。

終盤、手紙を書くシーンで明らかになる収容者たちの人生。
大人の収容者たちのほとんどに妻や子供がいました。
残して逝かなくてはいけない家族に手紙を書き、祭司に託します。

最愛の人たちへの別れが辛いはずなのに皆涙を流すことなく、勇猛果敢に処刑場へ続く道へ歩みを進めます。強い信念に貫かれた姿に胸打たれました。

さらに辛かったのは、ギィが、まだ恋すら知らなかったということ。
愛すること、愛されることを知ることもなく散っていかねばならないことです。
17歳。高校生の男の子。オデットに抱く淡い気持ちの正体を、彼は知らないまま死んでいかなくてはいけないのだと思うと、涙が溢れました。